「穏やかに笑う彼が好きだったんです」

 二度目に会った時に、彼女が寂しげにそう言っていたのを覚えている。それは、なぜ彼のそばにいるのかという俺の疑問への答えだった。



Escape from today



 いつから、という問いを投げかけようとすると、ふいと目を伏せ、ぎゅっと口をつぐんでしまう。そんなの姿は見ていていたたまれないけれど、自分は手を伸ばせない。届かない。

「なのにどうしてきみはあいつのそばに」
「信じていたい、から」

 そんなのただの、ちっぽけな希望だ。その果てに待ち受けるのは絶望しかない。彼女だって本当は分かっているはずだ。これまで誰も、彼女を助けようとはしなかったのだろうか。

「どうしたらきみをそこから救える?」

 聞けば彼女は「他人のことの前に、まずはゲッタウェイがそこから出なくちゃ」と力なく苦笑する。違う、俺が見たいのはそんな笑い方じゃなくて。

 俺に背を向けて歩いていく彼女がひどく遠く感じた。それは多分、彼女と俺とを遮る牢のせいだけじゃない。少し息をつけば、はその背後の暗闇に手を引かれ、消えてしまいそうだ。そしたら最後、この牢なんかよりもずっとずっと強固に囚われて、もう出ることはできないだろう。

 だから、が姿を見せるたびほっとしている自分がいた。それに、俺だってこの先どうなるか分からないのだ。いつか来てしまいそうな明日に怯えながら、あちこちに気を張って今日という日をじっと堪えるのは気が気でない。そんな『今日』を何度繰り返せばいい? 俺も、も。

 その日だっていつものように今日が過ぎようとしているところだったのに、去ろうとした彼女の背を見た瞬間、どうしようもない胸騒ぎに襲われた。このループを変えるなら今しかない。あっという間にブレインはその考えで満たされる。

、俺は!」

 彼女を引き止めた、自分でも思いもかけないほどの大きな声に、、そして俺自身が驚いた。

「どうしたの、ゲッタウェイ」

 穏やかにそう問い、俺を見上げてくるに怖気づきそうになる。今から自分がしようとしているのは、彼女がひとつ頷きさえすれば、たちまち明日を変えてしまう行為だ。

 いいのか? 俺なんかが。でも、それでも!

「……俺は、絶対にここから脱け出してみせる。そしたらきみも来てくれよ」

 はっとした様子で一瞬目を見開いたが、はすぐに視線を床へと落とすと、そのままうろうろと泳がせた。できない、と口が小さく動き、まるで何かに祈るよう、すがるように胸の前で手を強く組む。

「きみはずっとこのままでもいいのか?」

 きみから手を伸ばしてくれないと意味がない。目は開かれているはずだ。これ以上耐えるのはどうかもうやめてくれ。

「私、は……」

 彼女は真っ青な顔で、何かを言おうと口を開いては閉じ、背後を気にするように何度も何度も見やる。そこに何があるっていうんだ、あるのは闇だけだ、もう希望はひとかけらもないんだ、。きみはじゅうぶんにあいつの帰りを待っただろ。それでも帰ってこないのはあいつだ。きみはもう解放されていいんだ。それに、気付いてくれ。きみは、こんな場所にいちゃいけない。

 一息おくと、は迷いに揺れる瞳で俺を見る。

「ゲッタウェイ」

 不安そうに俺の名を呼ぶ。それでいいんだと応える代わりに頷いて見せれば、小さな手が牢越しに俺のもとへ伸びる。俺の頬に触れるそれは震え、血の気を失っているかのように冷たかった。

「お願い」

 こぼれそうなくらいに涙をためて、か細い声で、たった一言、されど一言。彼女はようやく俺に救いを求めてくれた。この手が自由なら彼女の手を握りしめているところだけど、今はできない。だから、今度はしっかりと握ろう。はなさないように、他の誰にもつれていかれないように。手だけじゃなく、できることならその体を抱きしめられたらいいんだけど。

「きっと迎えに行くから、そしたら笑ってくれよな」

 約束だ、と続ければ、これまで抑え込んでいたものがとけだすようにの涙が溢れていく。言葉はないけれど、もう大丈夫だ。

 次に会うとき、彼女はどんな笑顔を見せてくれるんだろう。



2015/02/14